コーヒーの歴史を追っていく当コラム。今回は、ヨーロッパ各国がコーヒーの大規模な栽培を始めた時期に関して紹介します。植民地でおこなっていたプランテーションは一体どのような形で始まったのでしょうか。
ヨーロッパ商人が扱っていたコーヒー豆
コーヒーがヨーロッパ各地で普及しはじめると、商人はエジプトで買い付けたコーヒー豆をヨーロッパで転売し、巨額の富を得ていました。その中で、オランダの商人たちは買い付けではなく自らコーヒー豆を栽培して利益を得ようと考えたのです。
インドネシアでの栽培
1658年、オランダの東インド会社(オランダで設立された世界初の株式会社)が、インドネシアのスラウェシ島やセイロン島に“コーヒーの苗木”を持ち込んで栽培を行いました。
1680年には、植民地のジャワ島にイエメンのモカから取り寄せたコーヒーの苗木を扱うようになり、1969年にはジャカルタにプランテーションが開かれるようになったそうです。
植民地に広がるコーヒー栽培
1706年には、ジャワ島からオランダのアムステルダム植物園にコーヒーノキが届きました。その種子が南アメリカのスリナムで栽培され、後にフランス領のギアナへと伝わっています。
コーヒー栽培はさらに世界へと広まっていき、1726年には南米ブラジルにコーヒーノキが持ち込まれ、大規模な栽培へとつながっていきました。
オランダが行なった強制栽培制度
1830年からは、オランダの総督「ファン・デン・ボス」の提唱により、強制栽培制度が実施されました。強制栽培制度とは、植民地の現地住民に対してサトウキビ、砂糖、コーヒー等の“商品として価値の高い作物”を強制的に栽培させ、植宗主国であるオランダがその利益を得ようとする動きです。
強制的に植民地の住民を働かせることによって、オランダには莫大な利益をもたらしましたが、現地民の生活を圧迫する結果になりました。自給自足を行なっていた植民地(ジャワ島など)の農民たちは、この強制栽培制度によって生活の基盤を壊され飢餓に苦しみました。
強制栽培制度は、住民の激しい反発により1870年に廃止となりましたが、実に40年間という長い期間現地住民は無理な労働を強いられていたのです。
オランダの財政危機が背景に
強制栽培制度はコーヒーを普及するためではなく、オランダの財政を立て直すために採られた政策でした。フランスで発生した7月革命に影響され、オランダ領であったはずのベルギーが独立運動を起こし、オランダは軍隊を派遣して鎮圧に乗り出しました。
結果、ベルギーは独立することとなり、軍隊にかかった費用やベルギーの工業地帯離脱による大きな経済的損失が生まれたそうです。
オランダの財政危機により強制的に行われていたコーヒー栽培
現在インドネシアで作られているコーヒーは、当時強制的に行われていたオランダ強制栽培の名残からきています。コーヒーなどの商品作物で得た富により、オランダはヨーロッパ各国に遅れながらも産業革命を成し遂げたのです。
強制的な面があったとはいえ、現在まで続く大規模な栽培に至っていることに驚きます。”植民地”の名残りのある作業なのに、恨み辛みまで語り継がれていないということは…。どの国においても、コーヒーというのは特別な嗜好品なのだな、という点に気づかされる史実ですよね。