コーヒーの歴史に迫ってく当コラム。今回は、フィリピンのコーヒー産業について紹介していきます。
コーヒー産業よりもバナナのイメージが強いフィリピンですが、1800年代から世界でも有数のコーヒー生産国でした。しかし、一時期その生産量は激減しています。一体何が起きたのでしょうか。
コーヒー栽培の歴史
フィリピンでコーヒー栽培が始まったのは、1740年にフランシスコ会というカトリック系の修道士が、バタンガス州のリパという土地にメキシコから輸入してきたコーヒーノキを植えたことがきっかけだと言われています。
その後はアウグスティヌス会の修道士達によって、バンガス州の他の地域でもコーヒーの生産が盛んになっていきました。バタンガス州はコーヒー栽培によって経済の基盤が作られるまで成長し、コーヒー産業始まりの地であるリパは“フィリピンコーヒーの首都”と言われるほどになりました。
フィリピンコーヒーの人気
アメリカで南北戦争が起こった後、アメリカ国内ではブラジル産のコーヒー豆よりも安く輸入ができるフィリピンコーヒーに注目が集まり、その需要は高まりました。
バタンガス州で作られた“バラコ・コーヒー”とい銘柄は、マニラの港からサンフランシスコに向けて輸出され、1865年には総生産量のおおよそ半数ほどが、サンフランシスコ経由でアメリカ国内に広がっていったそうです。
フィリピン産のコーヒー人気は、アメリカだけに留まりませんでした。1869年、スエズ運河が開通すると、ヨーロッパに向けても輸出をスタートするなど、フィリピンのコーヒー産業は順調そのものでした。
世界有数のコーヒー生産国に
18880年には、世界で4番目のコーヒー生産国となったフィリピン。ブラジル、インドネシア(ジャワ)、アフリカといった主要国のコーヒー産業が「さび病」の蔓延により右肩下がりになっていく中で、当時フィリピンは世界で唯一の安定したコーヒー供給を行える国でした。
フィリピンにも蔓延したさび病
しかしながら、1889年にフィリピンでも「さび病」が蔓延してしまいます。病気に加えて害虫の被害も深刻化したフィリピン国内では、コーヒーの生産量がガクンと落ちてしまったのです。これにより一大マーケットを気付いたバタンガス州のコーヒー農園は、ほぼ全て壊滅状態に追い込まれてしまいました。
全盛期の1/6まで生産量が落ち込んだ後に、コーヒー農園は他の作物の栽培を行なうようにもなりました。
コーヒー産業の復帰
1950年代、フィリピン政府はアメリカからの援助で耐病性のある品種を導入しはじめました。その影響で、60年代には数多くの農家がコーヒー栽培に復帰し、生産量は次第に増えていきました。
コーヒー農家が急激に増えたことによって、国際的なコーヒーの価格が一時的に暴落する事態にもなりましたが、現在でも順調にコーヒーの生産を続けています。