コーヒーの歴史に迫っていく当コラム。今回は、タンザニアのコーヒー産業にフォーカスしてみたいと思います。タンザニアコーヒーと聞くと、あまり馴染みがないかもしれませんが“キリマンジャロ”と聞けばピンとくる方もいるのではないでしょうか。
19世紀後半にコーヒーが伝わったタンザニア
タンザニアにコーヒーが伝わったのは1890年代のことだと言われています。カトリック教の布教を行なっていた宣教師が、レユニオン島(ブルボン島)のコーヒーを持ち込んだのがその始まりとのこと。
その後、東アフリカを支配していたドイツの手により、コーヒーノキのプランテーションをはじめました。しかし、当時の技術では雨の多い東アフリカでのコーヒー栽培が難しく、収穫は上手く行かなかったそうです。
高地の方がコーヒーは育つ
ドイツ政府がキリマンジャロの低地を自国民の農地として確保し、高地を現地のチャガ族の居住区・農地として割り振ったことも収穫が上手くいかなかったことに影響していました。
今現在は常識として「高地の方がコーヒーは育つ」という前提がありますが、当時は知識も経験ないため、良質なコーヒーが何故チャガ族の農地でのみ育つのかが不思議で仕方なかったではないでしょうか。
ヨーロッパ人の移住
1900年代初頭には、キリマンジャロの南側だけでおよそ28ものプランテーションが作られていたと言われています。コーヒー栽培を行なっていたのは、宗教的自由を求めアフリカに先住したボーア人、ドイツ人、イギリス人、イタリア人と実に多様でした。
1910年代になると、プランテーションは100以上にも増え、キリマンジャロにはコーヒーノキが200万本近く栽培されていたそうです。
キリマンジャロブランドの認知度
キリマンジャロでコーヒーが作られた頃は、まだキリマンジャロがブランドとしての価値を持っていませんでした。1900年頃は、ヨーロッパで値段の安いロブスタ種のコーヒー豆が一躍人気となっていたので、タンザニアで作られるアラビカ種は苦戦を強いられていました。
当時はキリマンジャロで作られたコーヒーがイエメンに輸送された後“モカ”のブランドとしてとしてヨーロッパに輸出されたそうです。
日本で人気が出た理由
日本は、ドイツについでタンザニアコーヒーの輸入が多い国でもあります。
世界的にはそこまで人気のある銘柄ではありませんが、ドリップ向きの豆であることや、ヘミングウェイ作の映画「キリマンジャロの雪」がヒットしたことで、キリマンジャロは日本で一大マーケットを築くこととなったのです。
現在ではモカやブルーマウンテンと並び、国内で3本の指に入るブランドコーヒー豆になっています。
日本で人気銘柄キリマンの歴史は以外にも浅かった
“キリマン”の愛称で日本人に馴染みの深い、キリマンジャロを生産するタンザニアのコーヒー産業。そのきっかけとなったのが”映画”というのは少し意外です。
本場イタリアではエスプレッソがコーヒーの定番として定着しています。そのため、ドリップコーヒーが主流になっている日本だからこそ、ドリップ向きのキリマンジャロは人気が出たのですね。