コーヒーの歴史を追っていく当コラム。今回は、コーヒーの生産と消費のバランスを考え始めるきっかけとなった国際的な会議が行われた時期をピックアップしていきます。
ヨーロッパ、アメリカ、そして世界へと一気に広まったコーヒーですが、普及したからこその問題もあったようです。
ブラジルの過剰なコーヒー生産
当初、ヨーロッパに輸出する商品としてサトウキビを多く栽培していたブラジル。ヨーロッパで砂糖が自給され需要が低くなったことで、コーヒー豆の生産に力を入れ始めました。
ペドロ1世が皇帝だった際、はじめてコーヒーがヨーロッパに輸出されると、ペドロ2世の時代にはリオデジャネイロ、サンパウロ、ミナスジェライスなど多くの州でコーヒー栽培が行われるようになったのです。
その後もブラジルは、奴隷制度とコーヒー単一栽培(プランテーション)によって19世紀のコーヒー市場で一躍有名になりました。
コーヒーの過剰生産と国際コーヒー会議
順調にコーヒー産業を発展させてきたブラジル。しかしながら、20世紀初頭にはコーヒーが過剰生産される状態が続き、各州知事たちがコーヒーの価格が下落しないように対策を練り始めました。
次第に増えていく生産量と反比例するように下がっていく、コーヒー低価格化。この事態を重く見たブラジル等ラテンアメリカ系のコーヒー生産国は、ニューヨークに代表者を派遣し、世界初の国際コーヒー会議「コーヒーの生産と消費を考える国際会議」を開催しました。この会議は1ヶ月に渡って続き、様々な意見が交わされたと言います。
世界大戦時のコーヒー事情
第一次世界大戦直前、ブラジルの国内で生産されている作物は約90%をコーヒーが占めており、そのほとんどがアメリカに輸出されていたといいます。
そして、第一次世界大戦がはじまると、アメリカ、フランスの2ヶ国は「余ったコーヒーを買い取ること」を条件としてブラジルに対して連合国への参戦を要請したのです。
戦場のインスタントコーヒー
戦争中、連合国軍の中では今まで飲まれていたコーヒーの他、作る手間のかからない“インスタントコーヒー”が普及し愛飲されたそうです。兵士たちは、激しい戦いの合間にリラックスする手段としてコーヒーを選択するしかありませんでした。そのため、ブラジルからのコーヒー供給はアメリカにとって勝敗を分ける大切な要素だと考えられていたのでしょう。
第一次世界大戦後、アメリカ国内のコーヒーハウスは戦前よりも4倍近くに膨れ上がり、コーヒーの需要が急激に増えました。ちなみに、現在“アメリカンダイナー”と呼ばれているレストランの原型がコーヒーハウスだったそうです。
コーヒー生産の転換点となった国際コーヒー会議
コーヒー生産における“供給”が増えすぎてしまった結果、“コーヒーを作れば作るほど儲かる”という図式は崩れ去ってきました。国際コーヒー会議が行われたことで、生産量の調整という考え方が広まるようになったのです。